“白梅の
人・歴史・理念”
- People / History / Philosophy -
知的障害のある子どもを持った親たちは、行政や地域の人々に粘り強く働きかけ、
子どもたちの居場所を自らが作りあげていった。その道のりを紹介します。
“白梅の始まり”
- The beginning of Shiraume -
白梅福祉作業所開設の道のりは当時、
白梅福祉作業所の所長であった福地喜代さんの歴史と重なります。
どこへでも手を引いて
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1953年(昭和28年)に生まれた福地さんの三男・三喜彦さんは2才になる頃、精神薄弱、ダウン症とわかりました。当時は知的障害者に対する激しい差別や偏見がまかり通っていた時代でもあり、親戚のはじだとか言われ、家から出さず隠すように育てている親も少なくありませんでした。親子心中もあった時代です。そんな時代でありながら、福地さんは幹彦さんをどこへでも連れて歩きました。周囲に理解してもらうことが大切だと考えたのです。
学校教育から
締め出されていた知的障害児
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幹彦さんは就学年齢を迎えますが、義務教育のはずの小学校で、言葉が出ないことを理由に受け入れを拒否されてしまいました。情報網の少ない時代、思いつく限りの学校へお願いに行き、その後世田谷区松沢小学校・くすのき学級に通えることになりました。「しかし、学校を卒業したらこの子たちはどこへ行けばいいのか」このとき福地さんの中に将来の「白梅福祉作業所」につながるなにかが芽吹こうとしていたのです。
「世田谷区手をつなぐ親の会」との出会い
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1962年(昭和37年)幹彦さんの松沢小学校入学は「世田谷区手をつなぐ親の会」と福地さんとの出会いでもありました。親の会では「親同士がつながっていくことが大切」と先生方が先頭に立って特殊学級の保護者に入会をすすめ、合わせて卒業後の会員加入を推進していた時期でした。福地さんは1966年(昭和41年)親の会会長に就任することになります。しかし会員は卒業とともに退会するケースが目立ち、福地さんは「卒業すると相談したり話すチャンスが減って困ってしまうよ」と会に残るよう卒業生や在宅者の親の加入の推進に取り組んでいました。
親だからやる、親だからできる
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山本ゆきえさん(右)佐藤麻子さん(左)
1968年(昭和43年)にスタートした知的障害者相談員制度は行政から委託された「親の会などの民間の協力者」が知的障害者やその保護者の相談に応じ、福祉支援につなげていこうというものでした。一人の相談員が30軒ほどを受け持ち、毎日訪ね歩きました。玄関先で「うちにはそんな子はいないから」と何度も追い帰され、それでも何度も通って、相談員自身の障害児の子どもを育てる苦労話をするうちに心を開いてくれ、親の会に入ってくれた人もいました。誰にも相談できず、心を閉ざしていた親たちです。
自分が動けばまわりも助けてくれる
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1970年(昭和45年)ころから福祉作業所の増設を求めて、都や区へ繰り返し陳情請願に通いましたが、知的障害者の仕事の必要性というのはなかなか理解してもらえませんでした。学校へは入れたけど、卒業後、行くところがない子どもたちのために福地さんはさらに情熱的に動き回ります。「子どもたちの行き場がほしい」と行政に働きかけるかたわら、親の会では各地の福祉施策や作業所づくりの情報収集をはじめます。どこかの区に作業所ができたと聞けばみんなで見学に行き、同時に福地さんは都や区の担当にコツコツとお願いしに回っていました。そのうえで地域の人たちに理解してもらうために、まず地域での活動を重視しました。
チャンス到来!
商店街の中の作業所
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福祉作業所実現のチャンスが巡ってきたのは、1976年(昭和51年)都からの委託事業として、東京都知的障害者育成会に福祉作業所の予算が回ってきたのです。ようやく見つけたのは豪徳寺にある空き店舗、福地さんが長く暮らしていた地元です。心配していた地域住民の反対もなく、逆に商店街の方々から「お母さんたち、頑張ってください!」と励ましてもらえました。スペースも狭く、質素な作業所でしたが、行き場のない知的障害児の親たちが自分たちの手で作りあげた「行き場所」でした。10年もの長い運動の末ようやく実現した作業所です。
大切な地域とのつながり
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開所時の利用者は6名、当初の指導員は全て障害児を持つ親たちでした。始めは洗濯ばさみの自主生産・販売のみ。完成した洗濯ばさみがたまると商店街へ売り歩いたり、町会長さんへ見本を持ってお願いしに行ったり、ここでも福地さんが大事にしてきた地域のつながりが、小さな作業所を支える根となってくれたのです。最初の1年間は売り上げを全部工賃として渡すので、経費は親の持ち出し、一番大変な時期でした。そして区内にある養護学校からは毎年数十人の卒業生があります。白梅にも入れないのでは、また行き場のない子どもたちを作ってしまうことになる、福地さんは障害者の置かれている現状を行政に向け訴え続けていました。
仕事を通じて生き生きと輝く
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その後もっと多くの子どもたちを受け入れられる広い場所に移転。利用者は15人と倍以上になりました。こうなると、洗濯ばさみだけでは工賃を出すことができず、業者を通じた作業も請け負い、雑誌の付録をセットする仕事、ボールペンの組み立てなど多種多様な仕事をはじめました。納期に間に合わせるために指導員である親たちが仕事を自宅に持ち帰って仕上げることもたびたびでした。ずっと家にいるしかなかった人は無気力になっていましたが、作業所に毎日出かけて行って責任を持って仕事をし、友達もできるようになると表情も豊かになりおしゃべりもするようになってくるし、社会性が身について落ち着きも出てきました。ちゃんと仕事があるのはそれだけで嬉しいことなのです。工賃は親にとっても大きな喜びだったようです。知的障害のある我が子が働いてお金をもらえるようになるなんてみんな夢にも思っていませんでした。金額ではなく、ただそれだけで涙が出るほど嬉しかったのです。
行政に芽吹いた白梅の小さな芽
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区内初の民営福祉作業所として、何もかも前例のないところから開拓しなければならなかった白梅福祉作業所は世田谷区の福祉行政に大きな影響を与えていきました。区の担当者は「親がやらなければ子どもを守れない」という考え方がその後の世田谷区の福祉施策を大きく動かしたといいます。お母さん方が一生懸命やっているのなら区も一生懸命応援しましょうと。1981年(昭和56年)白梅福祉作業所はさらに設備の整った施設に移転します。これは、区と親の会がガッチリとスクラムを組んだ移転・発展でした。その後、第二白梅、第三白梅、第四白梅、と民営福祉作業所を次々に開設していきました。そして1993年(平成5年)白梅福祉作業所の2階に白梅の7番目の作業所が開設され、現在は1階と2階の作業所をひとつの白梅福祉作業所として運営しています。